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人生の振り返りに際して
本日、卒業式を迎えまして、僕は大学院を卒業することになりました。 ここに至るまで、研究室のH先生や同期たち、サークルの友人・後輩、中学・高校時代からの友人たちには様々な角度から支えていただきました。 当然ながら、家族には一番迷惑をかけましたし、高校以降の学費を負担してくれたことについては感謝しかありません。
これまでも卒業というイベントは人生に於いて度々ありましたが、今回の「卒業」はこれまでとは違う、大きな意味を持ちます。 今日で僕は、与えられた、あるいは現時点までで求めた両親の庇護下における教育機会を全うしたわけです。 保護された環境から卒業し、僕も晴れて一人の社会人となり、自分の人生に対してこれまで以上に大きな責任を負うことになります。
この機会は、実は人生について振り返りまとめるための最後の時間なんじゃないかという感覚があります。 それほどまでにこれまでの人生とこれからの人生が決定的に違うものだと思います。 これまでのように誰かに守られるわけではなく、自分で人生を切り開く必要があり、同時に自由な世界が広がっているわけです。
そこで今回、記録に残る形で一度自分の人生についてしっかり振り返りを行いたいと思います。 この先の人生、漫然と過ごす中で若い頃の気持ちや感情、思想を忘れないように。 自分の歴史を持たない人間にならないように、僕の人生に一度、ケリをつけます。
人生年表
まず、振り返りの為に、人生の簡易年表を作成しました。 ある程度の目安として示しておきます。
とはいえあまりに長い上に小さいので当てになりませんが。
こうして作図してみると、案外もういろんな物事を忘れているもので、イベントの数は少なめな感じがします。 きっとよく思い出してみればもっとたくさんのことが合ったんでしょうね。
時系列順の振り返り
本章では、僕の人生について、時系列順にぐだぐだと、何が合ったか、その時どう思っていたかについて書き綴っていきます。 早い話が随筆ですので、読みづらいというところはどうかご容赦を。
小学生まで
僕の幼少期~少年期について、まずは振り返りたいと思います。 もうすでにこの頃の記憶は曖昧になってしまっており、日記などもつけていませんから、うろ覚えにはなってしまいますが。
小学校に上がるまでのことについて、覚えていることは殆どありませんが、一方でいくつか未だに思い出す強烈なものがあります。 夢の話です。
幼かった僕は、頻繁に怖い夢を見ていました。 その夢は決まって、粘性の強い液体の上におり――空間に色は無く、そして遥か遠くに撓んだ壁がドーム状に見え、僕はその様子に恐怖を感じて逃げ出そうとしました。 液体に浮いた板の上で、揺れる水面に合わせて必死に振り落とされないように、必死に水を掻き分けるようにして走った先に、顔の片方が水に浸かった大きな目と見つめ合ってその夢は終わります。
この夢は、小学校に上がる頃には見なくなりましたが、間違いなく僕の中で初めて感じた「得体のしれない恐怖」であり、そしておそらくは、母の胎内の記憶だと思います。 どうも僕には、流産となった兄がいたという話を母から聞きました。 いささかスピリチュアルがすぎるかもしれませんが、その話を聞いてから、僕はこの夢と死を結びつけて幼少期を過ごしました。 あの夢を見たくなくて、月の光を眺めながら眠りの恐怖に抗っていたのを覚えています。
この頃の僕は、少しでも長く生きたいと思っていたんだなと思います。
小学生
小学生に上がっても、やはり基本性質は変わりはしません。 「死にたくない」という、妙にリアルな死への恐怖感に耐えるという変な精神性を持ちつつも、ここまでの人生は順調にこなしていたと思います。
特徴的な点として、比較的広範な物事について、知的好奇心が爆発し、それを我慢することができなくなっていた時期がこの頃です。 通い始めた塾においてあった歴史の漫画本を授業中にもかかわらず必死に読み漁ったり、学校の授業中に教科書などを読むのも好きでした。 塾に限らず各所で発揮されたこの性質は、この先の知識吸収の下敷きとなって僕の基礎を築いていると思います。
また、この時期に親の影響を受けてハマったヤマトや松本零士作品、そしてエヴァに、僕の趣味嗜好が決められたことも、示しておかなければ行けないと思います。 サイエンス・フィクションと呼ばれる分野の娯楽作品が好みになったのは、おそらくはこの頃の経験があるからでしょう。 銀河鉄道999などは、未だに僕の心に染み付いています。
一方で、学年が進むにつれて友達とは話が合わなくなっていったのもこの頃です。 当初友人たちはその日の鬼ごっこやドッジボールを純粋に楽しむだけでしたが、徐々にゲーム・テレビ番組・漫画雑誌の内容が会話のメインストリームになってきました。 僕の家庭ではそういった娯楽は与えられませんでした。 切望したゲームやアニメ、お笑いなどに触れること無く、学年が進むごとに会話できる人間の数は減っていったことだけが確かでした。
今振り返って考えてみれば、他の小学生が平均的に与えられるものが与えられなかったことについては、これはかなり高望みなことを言っている自覚はあります。 なぜなら、僕の人生において、欲しいものは手に入らなかったかもしれませんが、安定した生活や、恵まれた家庭環境、将来へ積み上がる趣味の下地という、無くてはならないものが当たり前のようにあったからです。 あの時の寂しさは、今の充実感とのトレードオフだったんだなと振り返ってみればそう納得できます。
さて、そうした状況が変わったのは小学生の後半、家にps3とタブレットが設置されるようになり、これが僕のインターネットとの初めての邂逅でした。 前述した通り、限定された娯楽の中でどちらかといえば古いアニメや時々の金曜ロードショーそして絵本などで僕は育ちました。 そうした環境に突如として投げ込まれたこうした機器によって、それまでの人生で不足していた情報にアクセスすることができるようになったわけです(とはいえ、体系的な理解は得られませんでしたが)。 この時期のインターネットの雰囲気と、MADという文化や、そして吸収したいろんなアニメの知識は、本当に楽しいものでした。
また、剣道を始めたのもこの頃でした。 始めた当初はなかなか勝てない日々も続きましたが、剣道自体は楽しんでいました。 日本武道館でのオープン参加の大会に出るなど、それなりの思い出があり、以降の人生で心の支えになったり、貴重な友人たちとの出会いのきっかけになったりしています。
中学生
中学時代で一番のターニングポイントは、剣道部に入ったことでしょう。 入学してすぐに訪れた部活動入部の機会に、僕は剣道を続けてやるべく、剣道部の門を叩いたわけです。 当初、チームのメンバーは大半が小学校(なんなら幼稚園も)が共通していたため、仲間の結束感は強かったです。 経験者ということもあって1年生から学年の主将となり、幼馴染を率いる立場になっていきました。
中学校自体がマンモス校であること、地域がそもそも荒れ気味なこともあって上の学年の人達はやんちゃな人が多く、1年生の間はなかなか苦労しました。 やんちゃな人に対応するために、剣道部の顧問は高圧的になることが多く、その怒号を浴びるのはとても嫌でしたね。 それ以上に多くの恩(積極的な部の運用や遠征の引率など)があるため、あまり大きな声で言えないが、そういう空気には辟易していたのは覚えています。
結局3年間で、部内でのいざこざへの対処によって、心をすり減らしていたのも覚えています。 もはや細かいことは思い出せないし、思い出したくもないですが、多くの事件に立ち会って、その度に顧問に怒られ頭を下げていたように思います。 確かなこととして言えるのは、同じ組織内での恋愛はなるべく避けたほうがいいということとストレスをコントロールしなければならない、ということです。 恋愛するのであれば周囲の理解を得ることが重要だと気づけたこと、ストレスを溜め込むといつ破壊的な爆発を迎えるかわからないことを発見できたことは、ネガティブな部分はあれど大きな収穫でした。
また、この時期の僕にとって、『人とは会える時に会っておく、話せるときに話しておく』と決めたきっかけになった出来事として、父方の祖父の死があります。 彼は僕の受験期、中3の秋頃に亡くなりました。 最後にあったのは、僕が出場した県大会の応援席だったか、「応援ありがとう」程度の二言三言を交わしただけだったかと思います。 ある日突然電話がかかってきて……次に会った時には、もう彼は葬式場の棺の中で冷たくなっていました。 陽気で、いつも遠い耳に手を当てて孫の話をニコニコと聞いていた彼とはもう会えないんだと思うと辛かった。 何より、最後に会った時にもっと色々と話せることが会ったはずなのに、と後悔しました。
彼の死から受け取った教訓もありますが、彼自身の生き様から学んだ教訓もあります。 それは、学び続けることです。 祖父は、東京帝大、現在の東大出身の聡明な人でした。 肺炎を患い、学徒動員を免れ、祖母とお見合いで結婚して3人の子どもを育てた。 最後まで学習する意欲を忘れない人で、ラジオ英会話をやっていた姿が印象的でした。 彼はどうも、戦地へ行って帰ってこなかった友人のことを思う節があったようです。 時間がある限り、成長を続けることが、彼の残したメッセージのような気がしてなりません。
彼の死から数ヶ月、受験の時期が訪れました。 今から思うと不思議なことに、母校を含め受験した全校に合格、特進コースなどにも受かっていました。 特に母校は記念受験のような意味合いも強く、ある程度自信があったとはいえ、本当に全部受かるとは思っていませんでした。 進学先として母校を選ベルとなったときのなんとも言えない嬉しさをよく覚えています。 なお、この選択が苦しみの始まりとなるわけですが、このときには知る由もありません……。
ここまでの僕は、平均的な同世代の子どもたち、あるいは周囲の人々と比較して、順風満帆な人生を過ごしていたように思います。 剣道でもそれなりの成績を残し、部長として3️年間を全うし、勉学でも結果を残すことができた。 友人にも恵まれ、家族とはギクシャクしつつも生活・進路の支援ももらえていた。 分不相応な自信を、この時点では身につけていました。
高校生
高校生活は人生において大きな挫折の時期になりました。 ここまでの人生は、順風満帆といって差し支えないものでしたから、それが逆に、一度の躓きを大きなものにしたわけです。 中学時代の栄光(嘲笑)を引きずったまま高校に入ったからだ、心構えが足りていなかったんだ、ということは、今ならよくわかります。
最初期の失敗は主に二つ、勉強と、友人関係です。 これまで地元の中では勉強はできる方として通っていましたから、そのプライドと実際の成績との、これまで体験したことのないギャップに苦しみました。 クラスでもトップの点を取っていたのに、ここでは進学に足る最低ラインを満たす程度しか取れない、というのは、非常に大きい落差でした。 また、友人のいない環境、しかも、周りは中学からの持ち上がりでコミュニティができている状態、というのも初めての経験で、これに馴染めずにふさぎ込むようになりました……。
特に友人関係は重く、2年生の後半になるまで苦しい状態が続きました。 入学から数ヶ月も立たないうちに、いじられる対象になり、僕の不安定さを見抜かれていたのか、一部の人間には露骨におもちゃにされるようになりました。 今にして思えば、小さないじめのようなものでしょう。 僕に原因があったと、無理にクラスの全員と仲良くなろうとしすぎたんだろうと今振り返って思うところはありますが……。 とはいえ、そういった背景により、一部の人間を除いてずっとクラスには敵しかいないように僕には見えていました。 周囲の人間との距離感もわからない時に、少し仲良くなれたかも、という人間におもちゃにされて弄ばれる感覚は、後々まで尾を引きました。
塞ぎ込み、成績も落ち込んでいた僕を見て、父母は心を痛めていました。 受験の一発勝負ではなんとかなったものの、日頃の勉強態度は決して良いとは言えないまま進学してしまったため、定期試験での点は低くなり、必然担任から親へ連絡が行くようになりました。 母校のレベルが高いこと、自分自身の勉強態度が改善できていない点、前提となるメンタル面が荒んでいたなどの理由によって、成績が良化することはありませんでした。 付属校だった母校から、大学への入学の権利を取ることができたのは結果論でしか無く、当時は進学が危ぶまれていました。 両親からすれば、反抗期・成績不良による学校からの電話・友人もできず塞ぎ込んだ様子の3点セットが脈絡もなくやってきたわけですから、本当に心配をかけたと思います。 未だに、当時のことを話すとどれほど心配だったかと延々と愚痴が出てきますから、申し訳ないと思います。
そんな日々の心の支えになったのは、ごく僅かにできた友人と、剣道部での活動でした。 この高校時代を思い出す理由は、彼らや当時の活動にしかありません。
まずは友人について、幸いなことに各学年で数人ずつ、友人と呼べる存在ができたことは大きいです。 未だに連絡を取り合う仲になった友もいれば、もう連絡を取ることもなくなってしまった友もいますが、いずれの友人にも本当に感謝しかありません。 テスト勉強をしようと残った放課後の教室で、全然関係ない世界史の話や議論で盛り上がったやつもいれば、下ネタやくだらない会話を楽しんだやつもいる。 彼らとの交流は僕の人生において、重要な時間となって心に残っています。 本来であれば全員の名前を登場させてエピソードを語りたいところですが、プライバシーへの配慮が難しいのでここではやめておきます。 それに、彼らとの思い出をすべて列挙するのは、人生の振り返りではなく単なる思い出の列挙に過ぎませんから。
剣道部での活動では、OB・顧問との稽古、部員たちとの交流で必死に汗を流しました。 自慢ですが、僕は剣道ではそれなりの実力を誇っていました。 勉強や、クラスでの生活と比較して、ここでは彼らと剣を交え火花散る稽古ができる。 稽古の度に、今度は勝ってやる、どうすれば強くなれるだろうと考え、自分を鍛える経験は、本当に有意義な時間でした。 都大会への出場、動機や先輩・後輩との交流、これらの思い出は僕の高校生活で輝かしい部分であり、先だって書いた友人との交流を含めて僕の全てでした。
また、恩師と呼べる、僕の心に刺さる授業をしていた先生方に出会えたことも示しておかなければなりません。 担任、部活の顧問の先生方、特に英語のS、国語のA、Kと言った教員の方々には本当にお世話になりました。 彼らは授業を通じて、文化的教養の基礎を授けてくれましたし、文系科目に苦しみを感じなかったのは明確に彼らのお陰でした。 古い映画、クラシック、モノの見方、人との接し方、立ち居振る舞い……彼らのそういった姿勢に心打たれたから、僕の今があると思います。
高校3年に上がる際の文理選択では、勉強については3年間を通じて低空飛行を続けていたものの理系を選択しました。 それは、もともと文系に行く気はなかったことと……もう一つ、先に述べたS、Aの両教師の授業が受けられるのが理系だけだったからです。 全く馬鹿げた理由でしたが、今にして思えば、どんな理由でも理系に進まなければ僕は情報科学というものに出会うことすら無かったでしょう。 この選択を支えてくれた彼らには大きく感謝しています。
さて、この期間、この大きな挫折期間の中で、僕の価値観は徐々に、「いつ死んでもいいや」と変化し、あるいは物事を悲観的に捉えようとするクセがついきました。 死んでしまっても、という考え方は、未だになにか失敗するたびにスッと鎌首をもたげて来ます。 消えてしまえば楽になれるんじゃないか、という悲観は、現実を悲観的に捉えるクセは、僕の心の表面から根を張って、深く広くこびりついて手放せません。 失敗するかもという予測がたった瞬間から、悲観的な見方の方が強くなり、不必要に不安に駆られて勝手に苦しむ。 悪い癖ですが、なかなか抜けないのです。
最終的には、母校を選んで良かったと心から思えるようになり、思索も深まりましたが、苦しかったことの多い高校生活でした。 今もう一度人生をやれるとして、また母校を選ぶかは、正直わからないなと思います。
大学生
大学以後の人生は、ここ6年内の話ですから記憶もいくらかはっきりしています。 このあたりからの出来事は、ことごとく僕の今の人格形成に大きく関わってくると思います。
1年
晴れて大学に入学することになり、初めての春、僕は僕の人生を変える世界に出会います。 漫画同好会への入会です。 彼らと出会い、一気にこれまで知らなかった近代アニメの世界に浸かりこみました。 ゲラゲラ笑いながら見た当時の作品群(スペース☆ダンディ・ゾンビランドサガ・その他)は未だに僕の中に染み付いています。 ボードゲーム、格闘ゲームの世界にも出会いました。 ハートオブクラウンやUnder Night In-Birth、みんなでアホみたいに笑い合って、知らない世界と出会って——。
僕の娯楽としての世界を広げたのは、間違いなくあの日漫画同好会に入るという決断のおかげだった 人生において最も素晴らしい選択だったと思います。 当時のメンバー(同期のP、先輩MS、MR、X、N)とは未だにしょっちゅう遊びますし、間違いなく僕の現在まで通じる生活はここから始まりました。
遊びばかりではありません、情報科学という学問の門を叩いたのも大きな事柄です。 それまで、「プログラミング」という雑な認識だけで捉えていた学問・技術群が、次々と解像度高く眼の前で展開されていくのは、非常に心地良いものでした。 現実世界と情報科学の接続であったり、計算機科学の基礎学ぶ経験は貴重なものです。 特にプログラミング実習では、後に恩師となるH先生と出会い、その技術力の一端を垣間見てとても感銘を受けたり、あるいは広く現実世界に応用可能な問題解決の姿勢を学習することができました。 人生のもっと早いタイミングで、この授業を受けたかったと本当に思いました。
鬱屈した高校時代と一変して、自分が知りたかったことや、全く新しい世界との接続は、極めて明るく僕の人生を照らしてくれました。 しかし、やがて冬を越えて、コロナウイルスがやってくることになります。
2年
この頃から新型コロナウイルスが猛威を振るい、自宅にこもりきりになりました。 1年目に味わった部室の空気、先輩や同期との語らい、本来できるはずだった後輩の喪失。 非常に悲しかった。 たった一人の部屋で、静かにzoom越しの授業を受けるのが、なんとも言えない寂しさを感じさせました。
また、襲い来る孤独感によって、高校の時から続く鬱屈とした感情がまた湧き上がってきてしまった。 この頃には、早く死んでしまいたい、という僅かな希死念慮が再び鎌首をもたげ…… 無駄に哲学命題を自分に課しては思索を巡らせるなどしていました。 もはやその命題が何だったかさえ覚えていませんし、本当に鬱病を患った人と比べれば可愛いものでしょうが、とにかく相当な病んだ時期がここから始まります。
こうした気分は、高校の頃の友人と、Among Usや大富豪をして紛らわせていました。 この期間に仲良くしていた連中は一生物だと思います。 それほど、僕の人生を救ってくれた。 当時は皆、やることもない夜に遊びたかったんでしょうが、僕にとってはそれ以上の大きな価値のある時間でした。
一方で、情報科学の面白い部分にのめり込んだのもこの時期でした。 当時僕のPCは非常にスペックの低いノートPCを使っており、如何にスペックが低いPCで軽く授業の要件を満たすプログラムを書くかという点に終止しながら、多くのプログラムの要素について知識を得ていきました。 友人に力を借りることも、教授に質問することもできず、ネットと本の知識を頼りに、文字通り自力でです。 linux系の構造やpathの仕組み、エディタは何が良くて、sdkはこっちのほうがいい、この言語のほうが計算機資源が限られる場合は良さそう等。 この時期がなければ、僕は未だにPCやOSを便利なソフトウェアとしか思っていなかったでしょう。
今から考えると不思議なことに、この頃恋人ができました。 当時の僕にとってとても心が豊かになる交流ができたとは思いますが、しかし一方で恋に身を置く余裕が僕にはありませんでした。 やがて僕の心が恋愛から離れてしまって……彼女からすれば、脈絡のない別れ方だったかもしれません。 でも、彼女を「都合の良い女性」としてそばに置き続ける倫理観は持っていませんでした。 あの頃の反省を、僕はちゃんと持ち続けなきゃいけないと思います、今の恋人とは、別れたくないので。
3年
3年になった頃、僕の人生を変える一つの作品が公開されました。 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』です。 2年次から続く鬱屈とした僕に対して、この作品は思いっきり脳を揺さぶるパンチを叩きつけてきました。 映像美、ストーリー、メッセージ、音楽。 その全てに感動しました。 (シンエヴァに対する批判もあり、ある程度そういった意見に同意できる部分はありますが、それ以上に僕はこの作品に救われてしまった)
その後、強烈な思いを書き殴って小説にし、コミケに本を出すまでに至りました。 今、オリジナルの創作をしたり、大学院に行くぐらい元気が戻ってきたのは、間違いなくシンエヴァのおかげです。 間違いなく、僕のメンタルを揺り動かし、今に至るまでの原動力を与えてくれました。
また、この頃、漫画同好会の先輩に救われたことも大事な思い出の一つです。 今でも付き合いのあるX先輩ですが、当時の僕にとって、人との関わり、作品への向き合い方、様々な面で助けられました。 どうも彼にとっては僕と関わることで彼自身の知識欲を満たしたり、経験してきたことの裏付けを取りたかったようです。 が、経緯はともかく、彼との交流によって僕の小説の書き方は圧倒的に上達したし、心も救われたのは事実。 今なお、その交流が続いていることに、大いに感謝しています。
その元気を持ち越しながら、研究室に配属の時を迎えます。 この研究室では、現在に至るまで交流の続くいい関係性の同期に恵まれました。 また、なにより僕の現在に至るまでの人格形成で、大きな影響を受けた人物こそ研究室のH教授です。 彼との、以降4年間にわたる交流は、明確に僕の人格に影響を与えました。 当時の、配属を巡るメールのやり取りを思い出して、この人の研究室に入って良かったと、本当にそう思います。
4年
卒業研究が始まり、研究は迷走を始めました。 迷走は結局大学院の終わりごろになるまでずっと続き、僕を苦しめることになります。 この頃はむしろ、孤独感は薄れつつありましたが焦燥感に苛まれていました。 院進学の意思ははあったものの、周囲の人間は皆就活をし終えていたりして、自分だけ将来の見通しがたっていなかった状況は苦しかったですからね。
大学院の費用についても、両親と話し合って結局出してもらえたましたが、最初は自分でどうにかするべきだと思って工面に心をすり減らしたりもしました。 このあたりから、ようやく家族との間に作った溝を少しずつ埋められるようになっていけたことは良いことでしたが、当時はその壁を破るのに苦労しました。
大学院の振り返り
1年
大学院の1年目から、卒業に関して教授からある種の脅しを受けるようになりました。 それは、学科長や教授陣が定年退官によって入れ替わり、卒業基準が変わったからです。 当然、卒業のために必死に研究をやることに変わりはありませんが、モチベーションやメンタリティに圧力が掛かったのは言うまでもありません。 とはいえ、この圧力(悪い言い方のような気もしますが、教授に対して悪意を持っているわけではありません)と付き合っていくのは大変でした。
そんな中、大学院1年の冬、母方の祖父が死にました。 人の死、というものに対する心の感度は、いくらか慣れてきてはきていましたが、やはり苦しかったです。 彼との思い出は、あまりにも多い。 彼の畑仕事について回り、こんにゃく芋を煮る為に薪を割り、いとこと一緒に鍬を振り回して過ごした幼少期。 山の上まで原付きの前にしがみついて、風を切ってよく走り回りました。 遊びだけでなく、小学校、中学校と成長するにつれて、彼はよく、「辛く苦しいことの中に、頑張っていればきっといいことがあるから」と訓示をくれたのを覚えています。 コロナを経て、彼も衰え、徐々にいろんなことを忘れてしまっていく姿は、見ていて痛々しかったです。 会えないうちにやつれてしまった彼の姿は痛々しかったし、訃報を聞いた時には真っ暗な気持ちになりました。
また、この時点で祖母が、もはや祖父の死という事柄を理解できていないこともかなり悲しかったです。 彼女は、祖父が死んだと明確には気づいていませんでした。 棺に収まる小さな身体に触れて、「お父さん、冷たいじゃない。あったかくしなきゃ」と自分の服を着せようとしたり「誰のお葬式?」と聞いてみたりと、言動に落ち着きはありませんでした。 誰かの葬式であることと、自分の長年連れ添った夫が死んだことが結びついていなかったようです。 それを受け入れられないほど悲しかったということではなく、それを理解できないほど認知症が進んでしまっていたということです。 実際に葬式が始まったあとも、暴れる彼女を抑えることに必死で、まともに手を合わせる事もできませんでした。
この出来事から、明確に死生観、夫婦観が変わり、あるいは芽生えました。 それまでの僕はよく、「どのみち一人で死んでいく、なるべく誰にも迷惑のかからないように、ひっそりと孤独に死にたい」とぼんやりと思っていました。 しかし、彼の死をみて、「死ぬ時は、こんなふうがいい」と思うようになりました。 祖母が祖父の死を理解できないとはいえ、彼女は体が動く最後の時までよく、「お父さんは?」と、祖父の姿を探しました。 彼の死から1ヶ月が過ぎた頃、「もう1ヶ月もお父さんと会ってない」とポツリと呟いたこともありました。 すでに時間の感覚すら失って久しい彼女が、正確に死別からの時間を言い当てたのです。 それほど彼らの絆は強かったんだと思います。 いつか、生涯にわたる伴侶を見つけられたら、そんなふうな終わり方をしたいと思ったし、彼らのような生き方をしたいと思いました。
2年
2年生になって、とうとう最高学年になりました。 基本的な生活は、大学院1年の頃からあまり変化はありません。
強いて言えば、自分の生活、思考を記録して、その変化を残しておきたいという欲求がこの頃は非常に強くなっていきました。 この記事自体も、そういった欲求に基づいています。 人と話す中で、あるいは娯楽作品などを通じて、僕は自分の、人の人生に無意味なことはなく、その過去の積み上げによって人格が形成されるものだと思うようになったわけです。
特筆事項としてはやはり、修論の期限が差し迫る12月に恋人ができたことでしょう。 まさか自分がアプローチを受ける立場になるなんて思っても見なかったので、本当に驚きました。 この馴れ初めはあまりに長すぎるのでまた別の機会に詳細を譲りますが、恋人の存在によって僕はとても心を安定させることができました。 「恋人がいる」という事実にも、「その恋人があの子である」という事実にも、すべての彼女を含んだ事柄によって心を落ち着かせることができた。 感謝してもしきれないし、長く彼女と同じ時間をこれから過ごしたいと切に願います。 自分を好いてくれたあの子を幸せにしてあげたいし、これから一緒に過ごすことで僕も幸せになりたいと強く思います。
以上が、現在に至るまでの、僕の人生の列挙となります。
特定話題ごとの振り返り
前章までで、時系列順の出来事や人格形成に対する影響などを振り返ってきました。 本章では、特定話題ごとに絞って振り返りをしていきたいと思います。
恩師からの言葉
恩師からの言葉、あるいは恩師の言動に受けた影響というのはかなり大きいものがあります。 幼稚園から数えて、非常に多くの先生にお世話になりましたが、特に、剣道部顧問のK先生、所属した研究室のH先生には恩を受けました。
K先生には、剣道の技術、駆け引きに限らず、人生において重要な言葉をいただきました。
今鬱っぽくなって、就職できなかったり、何もできなくなっても、若いときの2,3年なんて人生残りの60年ぐらいと比べたらちっぽけなもんだよ
大学3年の頃、コロナも終りが近づいていた時に、後輩に誘われて彼に会いに行った際にもらった一言が、今の僕を支えています。 この言葉をもらって、非常に救われた気持ちになりました。 今、僕がある程度楽観的に生きていられているのは、彼のおかげと言っても過言ではありません。 また、近い内にお礼を言いにいきたいと思います。
また、H先生には、都合4年間お世話になりました。 彼から受けた恩と影響は計り知れません。
そもそも前提として、僕を研究室に迎え入れてくれたこと、出来の良くない僕を卒業まで面倒を見てくれたことには感謝しかありません。 当然この感謝は、研究室の動機や先輩、後輩にも同様に持っていますが、特に先生には強く持っています。 お陰で僕は晴れて社会人として生きていくことができるわけですから。
もう一つは、その立ち居振る舞いです。 彼の持つ、あるいは彼が人と会話する時に放つ雰囲気というものは非常に説明しづらいですが、間違いなく僕の会話のロールモデルとして影響を及ぼしていると思います。
- 相手とのパワーバランス・立場によらず、言葉を非常に慎重に選ぶ
- 近しい間柄になるにつれて砕けた口調に変わってゆく
- 自分の知識を過信せずに相手に確認を取りながら会話を進める
概ねこのあたりでしょうか…… これ以外にも、言葉には言い表せない風格を持っている人です。 あんな風に人に接することができるようになりたいと思いますし、今後も彼との会話を思い出しながら、反芻して、理想に掲げ続けると思います。
また、技術者としての彼には尊敬しかありません。 僕が対面したありとあらゆるソフトウェア技術者の中で、最も詳しく、理路整然としていて、それでいて広範囲の技術に対する道筋を持っている人です。 ハードウェア的知識から、そのセットアップ、低レイヤの技術から高度なWeb系の技術まで、到底彼には敵いません。 というより、僕は生涯彼の後ろ姿を追い続けて、追いつくことができずに死んでいくんだと思います。 それほど圧倒的でした。
この4年間は特に、僕の人格形成に大きく影響を及ぼしました。 今ある程度人当たりのいい人間になれたことは、H先生と過ごしていたからでしょう。 本当にありがとうございました。
友人関係の変遷
それぞれの年代でできた友人は、その交流によって僕の人格に大きく影響を与えてくれました。 幼馴染、高校時代にできた友人、大学時代のサークルの人脈。 それぞれとの交流が僕の人生を支えてくれました。
特に高校時代の友人には、本当に影響を受けました。
高校3年の時に出会ったMという男は、もう顔を合わせることもできないのに、未だによく思い出します。 彼とは、試験勉強そっちのけで、哲学や歴史について語り合いました。 今にして思えば、高校生特有の、偏りがあって浅い知識での議論だったと思いますが、間違いなく彼との対話は、僕の議論に対する礎になりました。 残念ながら、彼は大学2年の時に自ら命を絶ってしまいました。 あの頃の会話の答え合わせを、もうできないんだと思うと、悲しくはありますが、僕は彼の思い出を持って生きていきます。
Mと同じ場所で雑談に興じていた、そんちょうという男も印象的です。 彼とは、退廃的な人生観を同じくしており、会話の雰囲気や価値観も多く共有できていました。 当時は僕以上に希死念慮が強い男で、「どっちが先か」なんてこともいうほどでしたが、今では互いにそれなりの精神的健康を得て生きています。
また、コロナを期に集まって遊んだ連中のことも書き記しておかなければなりません。 未だに通話して遊ぶ彼らとは、単に遊ぶだけにとどまらず、その時その時の時事問題についてや、思想・哲学と言った深い話をすることができました。 それほど、心理的な距離の近い友人ができたことは、間違いなく生きる意味になっていました。
未だに付き合いのある、サークルの先輩・同期たちにも感謝の念を持っています。 僕にこんな楽しい世界を教えてくれたのは彼らですし、今でも遊んでくれていることについてもありがたいと思っています。 何より、僕がメンタルを安定させることができたのも、創作についていくらか理性的に振る舞えるようになったのも、彼らのおかげです。 本当にありがとう。
一方で、現在にまで続かなかった関係について、中学時代の剣道部の同期が挙げられます。 大学4年の卒業研究の締め切りが迫る頃、彼らから突然電話がかかってきました。 曰く、「今から稽古する、今から来い」と。 彼らは「来ないか?」と打診するでもなく、「とにかく来い」と言ってきたわけです。 卒論でメンタルをやられていた僕にとって、彼らの態度は非常に不躾に感じられました。 ヘラヘラした態度で、しかも突然に、尋ねるでもなく強引な誘い方をした彼らが、不愉快でたまりませんでした。 結局、彼らとはそれきり、連絡先も消してしまいました。
今でも仲の良い友人、縁を切った友人との交流を基に、僕は、友達との一線の引き方、たとえどれほど親しくともある種の礼儀が必要で、そして自分もそうであると信じていることを痛感しました。 今後、少なくとも僕自身は、友人に対して最低限の礼節を忘れずに生きていきたいと思います。
友人たちにはここには書ききれないほどの思い出をもらったと思います。 本当にありがとう。
創作活動の起り
創作活動、という点も、僕の人格には欠かせないものになっています。
シンエヴァを期に二次創作に関わるようになり、そこで現在のXでの相互フォローの方々と知り合いました。 彼らとの交流は、僕が疎かった同人文化との接触となりました。 自分の欲求を創作という形で吐き出している人(あるいはそうした創作物を好む人)たちとの接触は、非常に新鮮で、同時に僕の未熟な創作意欲を大きく刺激しました。 シンエヴァ後に僕が書き殴ったいくつかの二次創作作品は、(シンエヴァを作ったカラー・庵野は前提として)彼らのおかげでもあります。
そうした生活を送る中で、徐々に心に芽生えてきたのは一次創作への思いです。 庵野秀明展に行ったことで、それは強烈な欲求として僕の中に確定しました。 なにかを作り出すことに対して自分が持っていた憧れと、それを形にして生きている彼の姿と、僕の火種となった作品が融合して、今もなお書き続ける作品のプロトタイプを書き始めました。
創作活動への気持ちと行動は、当時疎遠になっていたサークルの先輩であるXとの再会を呼び寄せました。 僕が気持ちだけで突っ走っている姿を見て、彼がどれほど呆れ返ったのかは今なら想像できますが……しかし、彼が僕を見捨てなかったことで、僕は小説技術を向上させることができたし、作品に対しての向き合い方も身につけることができたように思います。
幼い頃からの創作意欲の燻りに、シン・エヴァンゲリオン劇場版という作品が火を点けてから、僕の第二の人生が始まったんだと、本当にそう思います。
恋人との関わり
僕は決して見た目の良い人間でもなく、ファッションなどに気を使う性分ではありませんが、ありがたいことにこんな僕でも愛してくれた女性が幾人かいらっしゃいます。 そして、今この振り返りを行っている段階にはできたばかりの恋人もいます。 今後の人生において、今の恋人となるべく長く、できることなら行き着くところまで一緒に生きていければ幸せだろうなと思いますが、そのためにもこれまでの反省と、こうして生きていきたいという決意が必要です。 これもまた、僕の大事な人格の一部でしょう。
細かい事柄は、プライバシーへの配慮のため書きませんが、僕は過去の恋愛から以下の反省を得ています。
- 同じ組織で深く関わる人物と恋愛をしない
- 過度に恋心を表に出さない
- 気持ちや意見ははっきりと伝える
1つ目について、これは、同じ組織内でよく関わる方とお付き合いした結果、組織内に不和を産み、自分の立場も危うくなったからです。 あの時以降、僕は友人を失ったし、もともと今以上にお人好しな僕でしたが、いろんなものに対して信用もしなくなったように思います。 本当に、恋愛以外の苦しみがあまりに強すぎましたから、これはなるべく避けようと思っています。
2つ目について、好きな気持を素直に表に出しすぎると、一時期の心の盛り上がりによって互いに苦しくなってしまうことがあったからです。 舞い上がる気持ちのまま言葉や行動に表しすぎると、それを平常として捉えてしまうようになり……。 これ以上思い出すと苦しくなるのでやめますが、とにかく、大事な言葉は口に出して伝えるけれど、行動に出しすぎない、というのは僕の反省です。
3つ目について、相手のことを気遣うあまりに言うべきことや自分の中で譲れない部分を譲ってしまうと、結果的に良くないと思ったからです。 過去お付き合いした人とお別れした原因には、少なからずこの点が入っていると思います。 今度は、きちんと話して、対話しながら二人の関係を深めていけたらいいなと強く思います。
総じて、僕は恋人たちとの交流及びにより明確に人に対して(同時に自分に対して)疑い深くなったように思います。 これは、交際の過程で僕が彼女らに過度に信用をおいたりおかれたりした結果、お互いに心を痛めた経験があるからです。 相手に対して理想を押し付けてしまっていたからだと、今なら理解できます。 今後はそうしたことのないように、心がけていきたいです。
人格の基本構造
前章までで僕の人生に何が合ったか、そのある程度の記録を書いてきました。 これらの経験を元にして、僕の人格形成の過程と重要な点について考察を巡らせていきます。
基本人格
思考の態度
はじめに断っておくと、僕は、思想というほど格好つけたものや、明確に枠の中に入るような思考を持ち合わせているわけではありません。 ただ、僕がなにかの現象に対して触れる際、ある一定の態度を持って立ち向かおうとしています。 これについて、改めてはっきりと書いておきたいと思います。
僕は基本的に、以下のことをことを意識しています。
- 対象に取る現象について、否定も肯定もしない
- 裏付けを取って冷静に結論づける
- 強い言葉で結論づけない
- 結論を信念として、今後出会う似た事象に対応する
- 信念は後の情報更新によって少しずつ修正を続ける
この五箇条を自らに課すことによって、余計な衝突の発生を抑制したり、過信による攻撃的な態度の回避ができるからです。 政治・宗教・生活などの事柄に限らず、娯楽や人間関係においてもこの態度は汎用的に役立ちます。 例えば、友人や恋人の話に対して、余計な波風を立てずにすみますし、何より大切な人を傷つけずに適切な会話を成り立たせることができます。
性格の態度
基本的には、誰かに対して優しくすることが理念としてあります。 人に対して攻撃的になることは全く無意味なことだと思うからでもあり、そう振る舞うように育てられてきたからだとも言えます。 この基本人格は人生にわたって大きく外れることもなく、僕の人当たりの良さを支えてくれました。
ただし、自分の信念に外れることに対しては、意見を聞き入れつつ、断固として受け入れない頑固さを持っているのが特徴でしょうか。 時折僕には、人として苦手な人、意見が合わない人が現れ、そして彼らに対して頑固さを見せてしまうことがある。 最近ではいくらか頑固さを相手に突きつけないようにする技術を身に着けてきたと思いますが、この点については改善が必要だと思います。
今後の人生へ向けた信条
ここまで僕の人生、人格形成の過程を振り返ってきたわけですが、肝心なのは、したがって僕はこれからどのように生きていくかということです。 ひとまず、これから大事にしていきたいことを、ここに記しておきたいと思います。
- (前提として家族を大切にする)
- 社会人として真っ当に生きる
- 友人との関係を大事にする
- 恋人との関係を長続きさせる努力を怠らない
正直、細かい反省点や改善事項はもっと山ほどある上に、より具体的な事柄に踏み込むべきところに対する考慮も足りていないので、そこはこれから精査が必要な部分ではありますが、ひとまずはこの3点が重要だと思っています。
僕は、この先の社会人というステータスは、自由の代わりに責任が伴う極めて危うい橋の上にあると思っています。 これまで、常にだらけきった生活を送ってきたわけではありませんが、今まで以上に「雑なサボり方」が許されないでしょう。 適度な息抜きは必要でしょうが、あまり気を抜きすぎないように頑張ろうと思います。
友人たちは、もうすでに(自然な流れによって)厳選された状態になりました。 彼ら以上に仲良くできる存在はおそらくでてこないでしょうから、彼らとのつながりは僕の社会との接続において重要な立ち位置にあります。 彼らとの関係を大事にするように努めようと思います。
また、恋人と長続きさせる、というのも、僕にとっては非常に重要な点です。 うだつの上がらない僕を愛してくれる人なんて、そうそう現れるものではありません。 言うなれば、彼女はゲンドウに対するユイのようなもの……。 過度に執着するつもりはありませんが、それでも僕にとってはとても大切な人ですから、大事にこの縁を育てていきたいと思います。
おわりに
長すぎます、この振り返り。 『おわりに』にまで、一体どれほどの人が脱落したことでしょう。 というか多分、これを見返したくなった将来の自分が一番げんなりしていることでしょう。
愚痴はさておき、大学院卒業に際して、僕の人生について振り返ったわけですが、24年、短いようで長い人生でした。 この先の人生は時間にして約60年。 病気や事故など様々な要因によって早めに終わってしまうこともあるかもしれませんが、まだまだ死ぬまでに多くの時間があります。 今日までに培ったものを持ち、この先も日々勉強を続けながら生きていこうと思います。
謝辞
最後に、改めて僕に関わってくださった方々に御礼を申し上げます。
中学生の頃、あるいは幼稚園から仲良くしてくれている地元の友人たち。 高校で出会った悪友たち。 サークルの先輩、後輩、同期。 自分と同じようにエヴァに狂った人たち。 研究室の人たち。 各時代の僕に示唆を与えてくれた恩師の方々。 そして、迷惑をかけながらも辛抱強く僕を育ててくれた家族、親戚のみんな。
これまで本当にありがとうございました。 皆さんの人生が豊かで幸福なものでありますように。そしてこれからも、何卒よろしくお願いいたします。